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千葉地方裁判所 平成8年(ワ)38号 判決 1999年3月29日

原告

甲野太郎

原告

甲野花子

右両名訴訟代理人弁護士

大塚喜一

宮本勇人

佐藤恒史

被告

社会福祉法人千手会

右代表者理事

高橋光連

右訴訟代理人弁護士

宮川光治

古谷和久

芹澤眞澄

主文

原告らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由

第一  請求

被告は、原告らに対し、それぞれ金五〇七二万五〇四八円及びこれに対する平成四年三月二六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

本件は、被告が設置する精神薄弱者厚生施設さくら千手園(以下「千手園」という。)において、園生であった甲野春子(以下「春子」という。)が、平成四年三月一四日早朝に行方不明になった後、同月二六日に園舎一階ボイラー室の煙突内部で遺体で発見された事件について、春子の両親であり相続人である原告らが、春子の死亡は、同女が行方不明になった後速やかに右煙突内部を捜索する義務等を怠ったことによると主張し、被告に対し園生委託契約上の債務不履行に基づく損害賠償を請求している事案である。

一  前提となる事実(争いがない。)

1  春子は、昭和四三年一月一四日生まれの女性であり、平成四年三月一四日から同月二六日までの間に死亡したと推定される。原告らは春子の両親で、その相続人である。

2  被告は、肩書住所地において、精神薄弱者福祉法一八条、二一条の五所定の、一八歳以上の精神薄弱者を入所させてこれを保護するとともにその更生に必要な指導及び訓練を行うことを目的とする精神薄弱者更生施設千手園を設置経営している社会福祉法人である。

3  自閉症であった春子は、昭和六二年七月に千手園に入園し、以後園生として保護及び更生に必要な訓練指導を受けていた。

4  平成四年三月一四日(以下、「失踪当日」という。また、同日の事実については、以下、日付を示さず時刻のみで表記する。)朝、春子は千手園園舎二階の自室から行方不明となり、以後、大規模な捜索にもかかわらず発見されずにいたが、同月二六日午後一時ころ、千手園の職員が、ボイラーの排煙のため煙突(以下「煙突」という。)の下部に取り付けられ、一階ボイラー室にある煤取り口(以下「煤取り口」という。)を開けたところ、春子が煙突底部で全身黒こげの状態で死亡しているのが発見された。

5  園舎は、一部二階建てであり、一階の食堂部分は平家となっていて、食堂の屋上部分(以下「食堂屋上」という。)は、二階廊下の非常口から出入りできる構造であり、園生は自由な立ち入りを許されていた。

食堂屋上に面した園舎二階部分の壁面には、二階屋上へ上るため、別紙一三記載の形状の金属製の梯子(以下「本件梯子」という。)が設けられているが、本件梯子の下段には、園生が上れないようベニヤ板が取り付けられるなどしてあり、脚立等を利用しなければ通常は登ることができないものであった。

煙突は、園舎一階のボイラー室から園舎の壁面に沿って、二階屋上の端に設けられた煙突開口部(以下「開口部」という。)まで通じている。

二  争点

本件においては、春子が行方不明となってから遺体発見までの経緯、死因、死亡についての被告の責任原因及び春子の死亡との因果関係並びに損害額が争点となっているが、当事者双方の右各争点に関する主張は次のとおりである。

三  原告らの主張

1  春子の死亡までの経緯等

春子は、次のいずれかの原因により死亡したものと推認される。

(一) 春子が自ら二階屋上に上がり煙突の開口部から入ったとは考えにくいから、同人は、煤取り口から煙突内に入り込み、酸素欠乏と火傷により死亡したものと考えられる。

もっとも、春子が開口部から煙突内に入り込み、酸素欠乏と火傷により死亡した可能性も否定することはできない。

(二) 春子の死亡原因としては、何者かが春子に暴行を働き、その後に焼却炉等の煙突外の場所で焼燬されて殺害され、遺体が煙突内に入れられたものである可能性も極めて大きい。

すなわち、春子の遺体の状況から、遺体は煙突内に無理矢理押し込められたと窺われること、春子の遺体には強い外力に起因する皮下出血の痕跡があったこと、春子の遺体は摂氏四〇〇度(以下、温度はすべて摂氏を指す。)以上の温度で焼燬されており、その場所は煙突外であると考えられること、春子の遺体とともに発見された大量の所持品を春子が持って本件梯子を登ることは不可能であること、春子の知能程度に照らし春子が自ら煙突内に入り込むことは考えにくいこと、以上の事実に照らすと、春子は、暴行によって死亡した後に焼燬されたか、焼燬されて死亡したかはともかくとしても、何者かに殺害されたものと推認される。

2  被告の責任原因

(一) 捜索義務違反

精神薄弱者厚生施設においては、園生が行方不明になることも多く、園生の生命身体が危険にさらされることもあるから、園生が行方不明になったときには、被告職員は速やかに適切な捜索を行うべき注意義務を負う。

(1) 春子が煤取り口から煙突内に入り込んで死亡したと仮定した場合

煤取り口は、被告が熟知しているはずのものであるから、被告職員は、園内を真摯に捜索する中で煤取り口の内部も当然に捜索すべき注意義務を負っていた。にもかかわらず、被告職員は、右注意義務を怠り、杜撰な捜索により煤取り口の早期の捜索をしなかった過失がある。

(2) 春子が開口部から煙突内に入り込んで死亡したと仮定した場合

千手園の敷地の門には無断外出する園生をチェックするためのセンサーが設置されていたが、失踪当日の朝、このセンサーの作動は確認されなかった。また、食堂屋上には、本件梯子の傍らにスチール製ロッカー(以下「ロッカー」という。)が置いてあったほか、失踪当日には、従前は付近に横に寝かせて置かれていたはずの脚立が本件梯子の前に立てられて放置されており、ロッカー上面に積もった埃も一部が擦れた状態となっていた。このような状況は、失踪当日朝の捜索開始当初から判明していたものであるから、被告職員としては、速やかに、園内をくまなく探すべきはもとより、春子が屋上へ上って開口部から煙突に入り込んだ可能性を予見して直ちにボイラーを停止させ、屋上の開口部及び煤取り口の両端から煙突内を捜索すべき義務があった。にもかかわらず、被告職員は、右注意義務を怠り、漫然と開口部から煙突内に入る可能性はないものと軽信し、平成四年三月二六日までの間煙突内の捜索をしなかった。

(3) 被告職員が午前六時四五分の春子の捜索開始当初から煙突内を捜索していれば、死亡するより前に春子を発見することは可能であったから、春子は、被告職員の右各過失により死亡したものというべきである。

(二) 管理義務違反

被告は、精神薄弱者更生施設の設置者として、園生の生命身体に危険が生じることのないよう、必要な施設を設置管理すべき注意義務を負う。

(1) 春子が煤取り口から煙突内に入り込んで死亡したと仮定した場合

被告職員は、ボイラー室に園生が立ち入らないよう、扉に施錠するなどして危険を防止すべき措置を講ずべき注意義務を負っていた。にもかかわらず、被告職員は、扉の施錠を怠り、あるいは鍵の管理を怠って右注意義務に違反した。

(2) 春子が開口部から煙突内に入り込んで死亡したと仮定した場合

煙突は防護柵もなく開口部が二階屋上にあるという園生にとって危険な状況にあったものであるから、被告は、園生が二階屋上に上がって煙突に落下することがないよう、必要な処置を講ずる施設管理上の注意義務を負っていた。にもかかわらず、被告は、本件梯子の近くに足場となるようなロッカーや脚立を放置し、二階屋上への上り口に蓋をせず、二階屋上に防護柵を設けず、二階屋上の開口部にも落下防止の覆いを設けず、右注意義務に違反した。

(3) 春子が第三者によって煙突外で殺害されたと仮定した場合

被告は、園生に危害を及ぼす外部の第三者が施設内に立ち入らないよう施設を管理すべき注意義務を負っていた。にもかかわらず、被告は外部の第三者の侵入を許して右注意義務に違反した。

(三) 監護指導義務違反

被告は、精神薄弱者更生施設の設置者として、園生を監護し、その更生に必要な訓練指導を行うべき注意義務があった。特に、これを自閉症者についていえば、自閉症者は、行動にパターンがあるものであるから、被告職員としては、自閉症の症状・行動様式・治療方法について十分に理解した上、個々の園生の行動をよく観察してそのパターンを理解し、その行動を予測するとともに、これに従った治療や訓練指導を実施すべき立場にあった。したがって、被告職員は、春子の行動を観察して、煤取り口や開口部から煙突内に入り込むという異常あるいは危険な行動に及ぶ兆候を示したことに気付き、実際に危険な行動に及ぶことを防止するために適切な措置をとるべき注意義務を負っていた。にもかかわらず、被告職員は、春子の行動観察を怠り、危険行動に出る兆候を見過ごし、危険行動の矯正や指導訓練、危険防止のための処置を何ら講じないで、右注意義務に違反した。

(四) 履行補助者の故意行為(春子が第三者によって煙突外で殺害されたと仮定した場合)

外部の第三者が、被告職員や千手園の園生に気付かれることなく、春子を居室から連れ出して殺害し、焼燬した遺体を所持品とともに園内の開口部から煙突内に投げ込むという一連の行為のすべてを行ったとは考えにくい以上、春子の殺害は、被告職員である千手園の指導員の関与の下に行われた可能性がある。この場合、原告らとの間で保護、指導訓練を行うために春子を預かる準委任契約を締結している被告は、履行補助者である指導員の故意行為について債務不履行責任を免れない。

3  損害額

(一) 春子固有の損害

春子は、次のとおり合計六一七二万九六五四円の損害を被り、原告らは、春子の被告に対する損害賠償請求権を、その二分の一である三〇八六万四八二七円分ずつそれぞれ相続により取得した。

(1) 逸失利益三一七二万九六五四円

ただし、春子は死亡当時二四歳であり、平成四年賃金センサス産業計・企業規模計・小学新中卒の女子労働者の全年齢平均により年収額を二五八万三四〇〇円、生活費控除率を三割、労働可能期間を四三年間とし、ライプニッツ係数により中間利息を控除して計算したもの

(2) 慰謝料 三〇〇〇万

(二) 原告らの損害

(1) 慰謝料 各一五〇〇万円

(2) 葬儀費用各一三四万七九三二円

(3) 捜索費用 各二六万二二八九円

(4) 弁護士費用

各三二五万〇〇〇〇円

4  よって、原告らは、被告に対し、債務不履行に基づき、それぞれ損害賠償金五〇七二万五〇四八円及びこれに対する春子の死亡以後の日である平成四年三月二六日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

四  被告の主張

1  春子の死亡の経緯等

(一) ボイラー室の施錠管理状況、煤取り口の扉の構造、煙突の構造等の事実に照らすと、春子が煤取り口から煙突内に入り込んで死亡したものとは考えられない。

(二) 開口部の大きさは、春子が入り込むことが可能なものであったこと、開口部の温度は、ボイラーの燃焼停止中は中に入り込むことができる程度に下がること、春子の死体とともに煙突底部から発見された遺留品を春子が所持して二階屋上に上がることは不可能とはいえないこと等の事情に照らせば、春子は自ら二階屋上の開口部から煙突内に入り込み、酸素欠乏と火傷により死亡したものと考えられる。

(三) 千手園の園舎には、失踪当日ころ、外部から第三者が侵入した痕跡はなかったし、外部からの侵入者が、被告職員や園生に目撃されることなく春子の殺害と死体及び所持品の煙突内への投棄を実行できる可能性は皆無に等しいから、外部の第三者が春子を殺害したとは考えられない。春子の遺体の状況は、第三者による殺害のみと結びつくものではない。

また、被告職員が春子の殺害に関与したとの点については、失踪当日の前夜からの宿直であった二名の指導員に気付かれずに犯行を行うことは被告職員でも不可能であるし、右二名の指導員が共謀して殺害に関与したとの証拠も皆無である。そして、千手園の園ぐるみの共謀又は犯行隠しが行われることもあり得ない以上、そのような事実はない。

2  責任原因

(一) 捜索義務違反について

(1) 三六〇ミリメートル(以下「㎜」と表示する。)という開口部の直径や煙突の形状、千手園において春子が生前二階屋上に上がったことがないこと、春子が千手園から無断外出しようとしたことが度々あること等の事情に照らすと、失踪当日の朝、脚立が本件梯子の前に立てられていたりロッカー上面の埃が一部こすれていたからといって、春子が開口部から内部に入り込んだ事態を予見することは不可能であったから、被告職員はそのような場所を捜索すべき義務を負わない。

(2) ボイラー燃焼時の排煙の温度及び酸素濃度並びにボイラーの燃焼間隔に照らすと、春子は、煙突に入り込んだ後短時間で、酸素不足と熱気により死亡したと考えられるから、春子の失踪に気付いた被告職員が直ちに煙突内部を捜索して春子を発見したとしても、春子の死亡を回避することはできなかった。

(二) 管理義務違反について

(1) 被告は、別紙一三のとおり本件梯子をベニヤ板で覆うなどして、園生が登ることができないよう措置を施していたし、脚立を放置していたものでもない。この状況では、春子が二階屋上に上がり、入り込むことが難しい開口部から煙突内部に入り込むという事態を予見して、必要な防止措置をとることは不可能であった。

(2) 被告は、ボイラー室を常に施錠し、その鍵であるマスターキーを園長及び各指導員に持たせ、これを管理しており、施設の管理について注意義務を怠ってはいないから、春子が煤取り口から煙突内部に入り込んで死亡したとしても、被告に過失はない。

(三) 監護指導義務違反について

自閉症者の行動にパターンがあってその行動を観察理解していればその行動は予測可能であるということは、一般にいえない。そして、春子には、自殺の兆候や煙突内に入り込むという行動を予見させるような兆候はなく、本件梯子を登ったり、煙突のそばに行ったりしたこともなかった。

第三  判断

一  事実認定

前記前提となる事実と証拠(甲一、二の1ないし5、三の1ないし5、四ないし八、九の1・2、一〇ないし一六、一八ないし二〇、二二、二五、乙一の1・2、二、三の1・2、四の1ないし4、五ないし七、八の1ないし4、九、一〇、一一の1・2、一二ないし一九、二〇の1ないし21、二一の1ないし18、二二の1・2、二三ないし二八、三一、三二、証人五伝木幸子、同仲田洋、同岩本茂忠、同有村直美、同木内政寛、同豊田威夫、同恵下均、原告甲野太郎本人、原告甲野花子本人、平成九年一二月一〇日付申立書に基づく調査嘱託の結果)及び弁論の全趣旨を総合すると、次の事実を認めることができる。

1  千手園の施設の概要

被告は、昭和六一年一一月一八日に厚生大臣から設立の許可を受け、同年一二月一二日に設立登記を経由した社会福祉法人であり、千手園は、被告が設立当初から設置を目指していた精神薄弱者更生施設であって、昭和六二年六月一日に、収容定員を五〇名として設置開園された。

千手園は、被告の肩書住所地(その位置の概要は別紙一の図面のとおり)に設置されており、その敷地(ただし、被告により家族支援・在宅福祉支援・地域福祉教育支援を目的として設置された、隣接の木の宮学園等の施設敷地も含む。)の状況は別紙二のとおりである。

千手園の園舎施設は、延べ床面積が1326.9平方メートル(以下「m2」と表示する。)、鉄筋コンクリート造り二階建て(一部平家)であり、その見取り図は一階が別紙四、二階が別紙五のとおりで、園舎一階には玄関、事務室、指導員室、食堂、調理室、医務室、ボイラー室(図面上は「機械室」と表示されている。)、園生の居室等が配置され、二階には、指導員室及び園生の居室等が配置されていた。園舎一階の食堂、調理室等の上部には二階部分はなく、その屋上(食堂屋上)は、周囲に高さ一メートル(以下「m」と表示する)余りのコンクリート塀とその上にさらに設けられた鉄製のフェンスで囲まれ、床面がコンクリートの打ちっ放しで、頭上が鉄骨及び鉄板で作られた屋根で覆われたスペースとなっており、ここには、二階廊下の端の非常口を通じて出入りできるほか、一階食堂の横に設けられた外階段(非常階段)によって建物外からも上がることができる構造となっていて、園生の自由な立入が許されており、春子の失踪当時は、物干場や資材置き場などとして使用され、資材の上には、普段から青色ビニールシートが掛けられて、その上に重しとして脚立が置かれていた。

二階廊下から食堂屋上へと通じる非常口を出て左側(食堂屋上から見るとその右脇)の、園舎二階部分の壁面には、二階屋上へ上るための保守点検用の梯子として、金属製の手摺九段が取り付けられていた(本件梯子)。失踪当日ころ、本件梯子の右横には、ロッカーが、園舎二階壁面を背にして置かれていた。

二階屋上は、全体が高さ約七〇センチメートル(以下「cm」と表示する。)のコンクリートの立ち上がりで周囲を囲まれ、一部が同様の立ち上がりで仕切られているほかは、一面がコンクリート敷きの平面で、空調機の室外機や水道タンクが設置されていた。

千手園の正門には、夜間の施設への人の出入りを確認したり、園生の無断外出をチェックしたりする目的でセンサーが設置されていた。このセンサーは、人が横切ったりすると作動し、職員室のチャイムが鳴る仕組みになっていた。

2  千手園の人員、体制等

失踪当日当時、千手園の運営は、施設長(園長)一名、指導員一九名(うち一名は産休中)、看護婦、介助員、栄養士各一名、調理員四名、事務員二名、嘱託医一名で行われており、その勤務態勢は、指導員及び介助員が早番(男女一名ずつ、午前六時四五分から午後三時四五分まで)、日勤(男女がほぼ同数で合計四、五名程度、午前八時三〇分から午後五時三〇分)、遅番(男女一名ずつ、午前九時三〇分から午後八時)、宿直(男女一名ずつ、午後八時三〇分から翌日午前九時三〇分)の四グループに分けられ、調理員が早番(午前六時三〇分から午後三時三〇分)と日勤(午前九時から午後六時)に分けられていたほかは、日勤制(施設長、看護婦及び事務員は午前八時三〇分から午後五時三〇分、栄養士は午前九時から午後六時)が採られていた。指導員の勤務態勢別の勤務内容等は別紙六のとおりであった。

失踪当時の千手園の園生は、男性三〇名、女性二六名の合計五六名で、園生の一日の日課は、概ね別紙三のとおりであった。園生の部屋割りは、知的障害の重さを基本としつつ、これに身体的な重複障害の有無や園生同士の性格の相性等も考慮して決められており、知的障害の重い園生に原則として一階の居室を割り当てることとなっていたが、春子の居室は、二階の星の二号室(別紙五参照)で、同居の園生は、いずれも春子と年齢の近い、自閉的傾向のあるA及び精神薄弱であるBであった。

3  春子の生活状況等

春子は、昭和四三年一月一四日、原告らの長女として出生した。

春子は、三歳のとき医師に自閉的傾向児と診断されるなど、幼少の頃から自閉的傾向があり、幼稚園に通園しつつ専門の医師の治療を受けたほか、小学校三年生から中学校の途中まで特殊学級に所属し、その後中学の養護学校に移り、さらに高校は印旛養護学校に進学して同校を卒業した。なお、春子が一〇歳であった昭和五三年一二月ころ、埼玉県が実施した春子の障害の程度に関する判定結果はBであり、身体障害の合併障害は認められなかった。

原告らは、昭和六二年ころ、佐倉福祉事務所に春子の千手園への入所を申請し、春子は、同年七月に入所した。なお、千葉県障害者相談センター所長作成の佐倉市福祉部長宛同年三月二五日付判定書においては、春子の総合判定として「重度精神薄弱である。家庭介護が困難であるため及び本人の自閉的傾向を改善するための指導を継続するために、精神薄弱者更生施設入所は適当と思われる」と記載されていたほか、知能に関し、「IQ三〇(MA四歳一〇月 鈴木ビネー)」と記載されていた。また、入所時の春子との面談の結果を記載した被告職員作成の「入所時の面談報告」では、春子に関し、言葉の状況として「自閉的傾向が強く無口ではあるが、『○○先生』『いや』『やる』『イタイヨー』第2語文程度は話せる。質問に対してはオウム返しが多い。」と、指示の理解として「簡単な指示は理解できるが気分的にムラがあり、強制や大きな声に対して拒否反応が強くなる。」と、集団生活の経験及び対人関係として「自閉的傾向が強く、職員、他児との関係は希薄である。調子の良い時は他児や職員におもしろい顔をしてふざけ相手をしてもらおうとしたりする。不安定な時は他児や職員に無理に背中をかかせたりする。」と、無断外出・自傷・異食等、特異な行動の有無・原因及び制止の手段・方法・経過として「なし。環境になれるまでは物を捨てたり、衣服を脱いだり等の行動があるかもしれない。」と、それぞれ記載されている。また、千手園における平成元年度から平成三年度までの間の、春子の年間指導記録における生活行動欄には、別紙七ないし九のとおり記載されている。

また、千手園における平成三年の七月から九月まで及び一〇月から一二月までの春子に関する各指導記録の生活習慣欄には、別紙一〇及び一一のとおりの記載があるほか、それぞれの指導記録の年間指導目標欄には、いずれも「精神面の安定」との記載がある。

春子の担当指導員は、平成三年八月ころから失踪当日まで、有村直美(以下「有村指導員」という。)であった。有村指導員の観察したところでは、春子には、偏食があったほか、情緒不安定な傾向があり、時々全裸になったり、トイレに閉じこもったり、物を投げたり、無断で外出しようとしたりすることがあった。また、その他の指導員の観察によれば、春子は、トイレに入ることを好み、洗濯するのが好きであったほか、無口で、食事の好き嫌いが顕著であるという特徴があった。千手園の職員は、春子について、特に気をつけるべき点として、拒食傾向があるものの無理に食事を食べさせないこと及び無断外出をするおそれがあることを申し合わせていた。

このような春子の無断外出の傾向は、平成三年四月ころ、担当職員や所属班の変更等の環境の変化に起因する精神状態の不安定とともに見られるようになり、その無断外出やそれを疑わせる兆候の具体的内容は、別紙一二のとおりである。また、同年五月ころから拒食的傾向が出るようになった春子について同年七月一〇日に医師の診察を受けさせた結果、精神的安定回復のために居宅訓練(園生が自宅へ戻って家族と共に生活することをいう。)の回数を増やすこととなり、同月一三日以降、ほぼ毎週末、春子は自宅に戻るようになって、本件失踪当日ころまでには、春子も、週末は自宅に帰るものであることを習慣として認識するようになっていた。春子は、無断外出で保護された際、「お家に帰る」と言ったりしてその動機が自宅に帰ることにあることを窺わせる発言をしていた(別紙一二参照)。

春子は、失踪当日ころ、身長一五四㎝、体重五〇ないし五四キログラム(以下「㎏」と表示する。)であった。

4  春子の失踪の事実経過

(一) 失踪当日の前日である平成四年三月一三日金曜日、春子は、当日に予定されていた一時帰宅が事情により取りやめになってしまったことから午前中は精神的に不安定な様子を見せていたものの、午後五時一五分からの夕食では、おかずを食べなかったほかは全量を摂取し、午後七時半からの自由時間では、八時四五分までの茶会の後、さらにプレイルームにおいてクレヨンで好きな園生の名前を書いたり指導員とともに歌を歌ったりして、にこやかで機嫌よく遊んでいた。その後、春子は、午後一〇時三〇分ころ、指導員五伝木幸子(以下「五伝木指導員」という。)に付き添われて、同室の園生であるAとともに居室に戻り、ピンク色のパジャマの上下に着替えて布団の中に入り、就寝した。この晩、春子に特に不安定な様子はなく、特に普段と異る点も認められなかった。

五伝木指導員は、同日夜から失踪当日朝にかけての宿直勤務であったため、春子を就寝させて居室を出た後、女子園生の居室を点検し、特に異常がないことを確認して一階の指導員室に戻り、同様に宿直であった指導員の渡辺隆宜(以下「渡辺指導員」という。)とともに翌日(失踪当日)午前二時半ころまでここで待機した上、シャワーを浴びて二階の指導員室で仮眠をとった。

(二) 五伝木指導員は、失踪当日午前五時ころ目を覚まし、早く目を覚まして起き出していた男子園生と事務室でコーヒーを飲んだ後、六時ころに園生の居室を二階から一階へと巡回して、園生の人数を確認するとともに、夜尿起こし(夜尿をする傾向のある園生を早朝に一度起こしてトイレに行かせて排尿の介助をする作業)を行った。この巡回の過程で、五伝木指導員は、午前六時五分ころ春子の居室を見回り、夜尿起こしの対象である同室の園生のAを起こしたが、この際、自分の布団の中にいた春子が掛け布団を動かして顔を出したのを目にした。このとき、春子は前夜に着たピンク色のパジャマを着ていた。五伝木指導員は、二階で二名、一階でも数名の園生について夜尿起こしを行った後、一階の指導員室へ行き、渡辺指導員のほか、午前六時二〇分ころ出勤してきた早番の指導員であった稲阪稔(以下「稲阪指導員」という。)及び佐藤利子(以下「佐藤指導員」という。)とともに引継ぎや雑談をしていた。

千手園では、園生の起床時間は午前六時四五分と定められており、毎朝この時刻に、起床時間を告げる園内放送が流されるとともに、早番及び宿直の職員が手分けをして起床介助に当たることとなっていた。失踪当日も、佐藤指導員が起床時間の放送を園内に流した後、四名の指導員は手分けをして園生を起こしに巡回し、五伝木指導員は担当の一階で夜尿をしてしまっていた園生の処置を行っていた。二階の女子の担当として星の二号室に春子らを起こしに行った佐藤指導員は、この居室にA及びBの二名のみがおり、春子がいないことに気付き、近隣の居室や女子便所にも春子の姿は見当たらず、右Bに尋ねたところでも「出かけた。」との返事であったため、階下に下りて、他の指導員に春子の姿が見えないことを告げた。これを聞いた五伝木指導員が直ちに春子の居室へ赴いたところ、部屋の中は、同室の園生らが片づけたため春子らの布団は既に敷かれていなかったが、前夜自らが部屋の入口脇においたクレヨン等の入った春子のビニール袋が見当たらなかったことから、五伝木指導員は、とっさに、春子が園外に無断外出したものと判断した。

5  失踪当日の捜索状況

(一) 当時在園していた宿直及び早番の指導員ら四名は、春子の所在不明への対応を協議し、まず手分けをして園舎内を捜索したが発見に至らなかったため、午前七時一〇分ころ、指導主任の地位にあった稲阪指導員の指示により、以後は園生の世話と春子の捜索を分担することとし、稲阪指導員と渡辺指導員が園内外で春子の捜索を行い、五伝木指導員及び佐藤指導員は園生の世話をしつつ手が空いたときに随時園内を捜索することとなった。

稲阪指導員と渡辺指導員は、施錠されている箇所を含む、浴場、ボイラー室、倉庫、医務室、食堂は、調理室といった園舎内のすべての部屋を捜索し、さらに園舎外でも、園舎周辺の浄化槽や受水槽の内部、調理員用外便所、裏庭等を捜索したが、春子を発見することはできなかった。このため、稲阪指導員は、渡辺指導員に対して引き続き園内の捜索をするよう指示し、自らは、敷地内の千手園園舎周辺以外の、多目的ホール、作業棟、木の宮学園等を捜索した上、園外へ出て従前春子が無断外出した際の経路の捜索を行った。

他方、五伝木指導員及び佐藤指導員は、園生の洗顔及び食事の介助を行った後、午前九時ころ以降園舎内の捜索をした。

失踪当日の朝、千手園正門のセンサーの作動を知らせるチャイム音を聞いた職員はいなかったが、このチャイム音は、職員室から離れた場所では聞こえない程度の音量の絞られており(その理由は、大きなチャイム音で職員室周辺の園生が精神的に不安定になることを避けるところにあった。)、しかも、無断外出をする園生らの中には、センサーの赤外線を飛び越えたり門以外の箇所からフェンスを乗り越えたりする者が従前から何名もいたため、被告職員は、園生が行方不明になったときにセンサーのチャイム音が聞こえなかった場合でも、特に捜索の対象を千手園の敷地内に絞ることにはしていなかった。

(二) 稲阪指導員は、午前七時三五分前ころ、捜索先である園外から千手園に電話連絡を入れ、渡辺指導員に対し、園長の恵下均(以下「恵下園長」という。)の自宅及び原告ら宅に春子が行方不明になった旨を連絡するとともに、千葉県警察佐倉警察署(以下「佐倉警察署」という。)ユーカリが丘交番に保護依頼の連絡をするよう指示し、渡辺指導員は、これに従って、午前七時三五分ころには佐倉警察署に春子の所在不明を届け出たほか、午前八時前ころまでには恵下園長に連絡し、原告らに対しては、遅くとも午前八時二〇分ころまでには連絡を入れた上、自らはなおも春子の捜索を継続した。

右の連絡を受けた恵下園長は、自宅(千葉県佐倉市井野一六〇番地所在)が千手園から約一キロメートルのところにあったため、午前八時ころには千手園に到着し、全職員に対して非常召集をかけるとともに、出勤してくる職員に対して、順次園内外の捜索をするよう指示した。

(三) 千手園の指導員仲田洋(以下「仲田指導員」という。)は、午前八時ころ出勤したところ、千手園の門の前あたりで会った恵下園長から、春子が行方不明になったことを知らされるとともに、千手園の敷地内及び園舎内を捜索するよう指示を受け、自転車で敷地内の田や庭、建物の周囲を捜索した上、午前八時二〇分ころには園舎に戻り、同八時三〇分に予定されていた職員朝会までの間、園舎内を一通り見回ることとし、二階の女子側(二階指導員室から食堂屋上にかけての部分)から廊下突き当りの非常口を通り、午前八時二五分ころ食堂屋上に出た。そこで仲田指導員は、本件梯子の直前、ロッカーの左脇に、従前は資材に掛けられた青色ビニールシートの重しとして横にして置かれていたはずの折り畳み式脚立(組み立てたときの高さは一四三㎝)が、組み立てて立てられているのを発見した。

当時、本件梯子は、園生が二階屋上へ登るのを防止する目的で、被告により別紙一三のとおリベニヤ板で覆われており、そのままでは容易には登れないようになっていたが、その前に脚立が置いてあるのを見た仲田指導員は、春子が誰かが脚立から梯子に登って二階屋上へ上がったのではないかと思い、右脚立に登ってみた。すると、ロッカー上面に積もった埃が一部足等で擦られたような痕跡があったため、仲田指導員は、さらに、誰かがロッカーを足掛かりとして脚立から本件梯子に移って二階屋上に上がったのではないかと感じ、同じように本件梯子に取りついて登り、二階屋上に出て、登った人物が春子である可能性を考え、何度か春子の名前を呼びながら二階屋上を捜索し、さらに周囲の道や田、山等を見回した。その中で、仲田指導員は、開口部に気付き、春子が煙突内にいるとは想像もしなかったものの、園内をくまなく捜すという捜索の目的のためには一応隅から隅まで捜しておいた方がよいとの考えから、煙突の内部を覗こうとして煙突開口部を覆うサイロ状の構築物の中に顔を入れた。しかし、煙突の内部は暗くて人の気配や応答もなく、上がってくる排煙で目を開けているのが難しい状態でもあったので、仲田指導員は、ここから春子が煙突内部へ入ったとは考えにくいと思い、煙突内の真下を見下ろせる位置までは顔を入れずにその場を離れ、引き続き園舎内の捜索を継続して、午前八時四〇分ころから職員朝会に参加した。

(四) 有村指導員は、午前八時ころ出勤して春子の行方不明を知り、恵下園長から園舎内の捜索と春子の所持品の調査を指示された。そこで、同指導員は、園舎内のトイレ、春子の自室の押入れやベランダ、他の居室等を捜索した上、春子の所持品を調査したところ、ピンクのトレーナーとパジャマの上下、青のジーパン、赤のサンダル等が見当たらないことを確認し、これを恵下園長に報告した。また、有村指導員が、午前中のうちに、春子と同室のBに対し、春子が部屋からいなくなった事情を尋ねたところ、右Bは、春子が全裸で部屋から出ていき、廊下を右側(食堂屋上に出る非常口とは反対方向の、玄関に向かう方向)に歩いていったと説明した。

(五) 職員朝会では、捜索に従事した職員らが詳しい状況報告をした上、恵下園長の指示の下、その日の千手園の日課を休日日課とし、多くの職員を春子の捜索に振り向けることとした上、捜索担当の職員の捜索先の割り振りをして捜索が再開された。

この朝会の前後に、仲田指導員は、食堂屋上の脚立とロッカー上面の足跡様の痕跡のことを、副園長である指導員の岩本茂忠(以下「岩本指導員」という。)その他の職員に話したが、恵下園長への報告はしなかった。また、このときもその後の春子の捜索の過程でも、誰が脚立をその場所に立てたのかとの点については、職員の間では特に問題視されることはなかった。また、二階屋上については、午後零時四五分ころ、稲阪指導員が食堂屋上の脚立の存在を確認した上で捜索したほか、仲田指導員も午後五時半ころ捜索を行い、再度開口部から煙突内を覗いてライトで照らしてみらが、やはり排煙中であって顔をサイロ部分に入れることはできず、内部の様子も煙で見づらかったため、内部の様子は分からなかった。

(六) 原告らは、春子の行方不明の連絡を午前八時前ころに受け、車で自宅から千手園までの間の道を往復するなどして春子の捜索を行った。

(七) 以上のとおりの被告職員及び原告らによる捜索によっても、春子を発見することはできなかった。

6  失踪当日以降の捜索状況

春子失踪の翌日である平成四年三月一五日以降も、捜索は継続され、原告、及び被告職員のほか、佐倉警察署の警察官、消防団員、ボランティア、千手園の父兄団体、報道機関、福祉関係機関等の様々な団体・個人の協力を得て、徹底的な千手園内外の捜索活動のほか、ポスターやマスメディアによる情報提供の呼びかけ等が行われ、外部からの春子の目撃情報も数件が寄せられたものの、春子の発見には至らなかった。

佐倉警察署は、失踪当日の朝に渡辺指導員から春子の行方不明の通報を受けたほか、同月一六日には原告ら及び恵下園長からの公開捜査(行方不明捜索)願いを受理し、それ以降、警察犬による痕跡調査、被告職員や園生からの事情聴取、署員による園内外の捜索、園内での指紋採取、NHKへの捜査報道の依頼、鉄道警察隊への捜索協力の依頼等を行い、特に、同月二四日には、佐倉警察署署員三五名が園内及びその付近一帯の捜索を行った。警察犬を用いた痕跡調査では、警察犬が園舎から近隣のモノレールの女子大駅(別紙一参照)まで行って追跡を止める動きを見せたことから、担当の警察官は、春子がここからモノレールの乗ったのではないかとの推測を述べ、これを聞いた被告職員も、このことから春子がそこまで歩いて行ってモノレールに乗ったのではないかと思うようになった。また、園内の捜索も数度にわたり行われ、仲田指導員からの事情聴取の結果得られたロッカーの上の足跡様の痕跡の存在の情報に基づいて、ボイラー室を含む園舎内の各部屋以外に二階屋上も捜索の対象とされたほか、天井の扉を開けて天井裏をのぞき込むことまでもが行われたが、煙突の内部は捜索の対象とはされなかった。

7  春子の遺体の発見状況

岩本指導員は、同月一八日の宿直勤務の折にボイラー室の見回りをし、室内の壁の低い位置に鉄製の板のようなものがあることに気付き、同月二六日昼ころ、ボイラー室の管理責任者である指導員の沼倉久(以下「沼倉指導員」という。)と園生の食事の介護を一緒に行った際、このことを思い出して同指導員に尋ねてみた。しかし、沼倉指導員にもそれが何であるのか不明であったため、岩本指導員と沼倉指導員は二人でこれを確認することとし、ボイラー室に赴いた。ボイラー室では、沼倉指導員が、その板のようなものが扉(煤取り口)であることを確認して、これが押し鍵でロックされていたことから、これを押して扉を開き、暗い内部に手を入れた。すると、沼倉指導員は、手探りで人の膝のようなものに触れたため、そのように岩本指導員に告げ、これを聞いた岩本指導員が内部を覗き込んだところでは、内部でビニール袋様のものが光るのが見えた。当時、ボイラーは作動中であったが、煤取り口からは、熱風が吹き出てくることはなかった。

両指導員は、人の膝らしきものが煤取り口内にあることを直ちに恵下園長に知らせ、恵下園長も、ボイラー室に行って煤取り口内部を覗き、内部に春子のものと思われるビーズ作品やクレヨン、衣類が見えたほか、人の膝のように思われる黒い物が見えたため、佐倉警察署に連絡を入れるとともに、折から捜索活動のために来園していた原告らにもこのことを告げた。現場保存のため、佐倉警察署の警察官が到着するまでの間、内部には誰の手も触れられなかった。

臨場した佐倉警察署の警察官らは、人間の遺体であることが疑われた煤取り口内部の黒い物を取り出し、これが人間の遺体であることを確認した。取り出された遺体は、全身が黒く焦げており、着用している衣類も黒くなっていた。内部からは、この遺体のほか、その下にあった画用紙、ビーズ作品等も取り出された。これらの物品は、脂様のものが付着して表面がぬるぬるしていた。

春子の遺体に付着していた衣類のうち確認されたものは、ジャンパー一着、ズボン一本及び一対の靴下であったが、これらはいずれも強く焼けを受けあるいは煤を浴びて黒くなっており、また、ジャンパー及びズボンは原形を留めないほどに焼け、いくつかの断片になっていた。また、春子の遺体とともに煙突の最下部から発見された物品は、いずれも春子の所持品で、その詳細ば別紙一五のとおりであり、その重さは合計でおよそ一〇kgであった。これらの所持品は、一部には焼けこげのあるものもあったが、その焼燬程度は、遺体に付着していた衣類と比較して格段に軽度であり、一部には、煤が付着して汚損した程度で、焼燬を受けていないものもあった。

8  遺体の状況

春子の遺体は、発見された平成四年三月二六日のうちに、佐倉警察署において佐倉市内の開業医である外科医の内田成和による検案に付され、同人は、検案の結果をまとめて作成した検案書(甲六)を作成し、死亡の種類は外因死、その詳細は不詳とそれぞれ記載した。

春子の遺体は、その翌日の同月二七日には、佐倉警察署の嘱託により千葉大学医学部法医学教室の木内政寛教授(以下「木内教授」という。)による司法解剖に付された。遺体は、皮膚が大きく欠損していて外傷の有無が不明であり、臓器も炭化収縮していたことから、木内教授は、死因を特定する所見を得ることができず、春子の直接死因のほか、発病年月日、死亡年月日時分、発病から死亡までの期間のいずれも不詳との結論に達した。

また、木内教授は、解剖の結果を要約した死体検案書(甲七)を作成し、その死亡の原因の項に、直接死因及び発病から死亡までの期間については不詳、解剖の主要所見については「広範囲の皮膚・軟部組織欠損を伴う全身の第4度火傷。残存軟部組織、臓器は炭化熱凝固乾燥収縮。」とそれぞれ記載した。

木内教授による春子の遺体の解剖所見の詳細は、次のとおりである。

(一) 皮膚、皮下脂肪、筋肉組織等の軟部組織が焼けて欠損している部分がかなり広範囲に見られた。残存している皮膚も第四度の火傷(炭化した状態を指す。)を受けており、欠損せず残存していた軟部組織及び臓器も、表面が炭化し、あるは全体が乾燥収縮ないしは熱凝固を生じていた。

(二) 臓器のうち、肺は乾燥収縮を起こして握り拳大になっており、胃は一部が焼失していて内容物は確認できない状態であった。また、子宮は乾燥収縮して非常に小さくなっており、妊娠の有無についての所見を得ることはできず、その周辺の組織は乾燥収縮のため臓器の区別が不可能な状態であった。

(三) 皮膚等の軟部組織の欠損は、胸部・腹部等の体幹部及び四肢に顕著に生じており、顔面には比較的に皮膚が残存していて、頭髪も頭部右側から前面にかけて残存していた。下半身については、腰から臀部にかけての皮膚が残っていたほか、下肢のうち左側は、下腿の下半分と大腿部の全体にかなりの皮膚の欠損が見られ、右側は、大腿の付け根から下腿までの、前面から外側にかけてのみ皮膚が残存していた。この皮膚の残存箇所には皮下出血が見られたが、それ以外の皮膚の残存部分には外傷はなかった。

右大腿の付け根に近い部分には、皮膚の亀裂があったが、これは、火傷裂創(皮膚が熱によって収縮することにより生じる裂創)の可能性が一般的にあるほか、当該部位に皮下出血を伴っていることを併せ考慮すると、当初から外力によって裂傷が生じていたか、あるいは当初外力によって生じた小さな裂創がその後熱による皮膚の収縮で拡大したものである可能性もある。ただし、当該裂創が生じた時期が生前か死後かは不明である。

(四) 関節は全て焼けを受けており、骨と骨は接続しておらず、姿勢は確認できない状況だった。骨折はなかった。

(五) 体液はいずれも残存しておらず、薬物等の検査は不可能であった。

9  ボイラー室、煙突等の状況

(一) ボイラー室は、園舎の一階中央付近にあり、内廊下から出入りするドアが付いていたほか、直接外部に出ることができるドアも設けられていた。

このうち、外部に通じる二箇所のドアはいずれも内部からのみ施錠することができる構造であったが、普段から施錠されており、ここからは職員も園生も出入りをすることはなかった。また、内廊下との間のドアは、廊下側から鍵が掛かるようになっていたが、この鍵は普段から施錠されており、園生は出入りができないようになっていた。このドアの鍵であるマスターキーは職員全員が所持していたが、職員がボイラー室に立ち入る機会としては、宿直の職員が燃料と温度の確認のために入ることが一日一度あるだけで、ボイラー技師の資格を持つ者は職員の中にはおらず、ボイラーの保守点検は業者に委託して定期的に行われており、職員が点検に立ち会うこともなかった。

(二) 煙突の煤取り口は、ボイラーのパイプ等の機器の後ろに当たるボイラー室内の壁の低い位置(床面からおよそ一〇cm)に設けられた、煙突の最下部に通じる開口部であり、その形状は一辺が約四〇cmの正方形で、鉄製の扉が取り付けられていた。この扉は、ボイラー室側から施錠する打掛錠(押し鍵)がついていて、煙突側からは施錠できない構造になっていた。

(三) 煙突は、内径が四〇八mm、長さが約7.5mの円筒形をしており、ケイ酸カルシウム成型パイプが用いられたもので、ボイラー室内の柱状の張り出しの内部に垂直に設置され、その最下部はボイラー室の床面とほぼ一致していた。

煙突の上端の開口部は、一〇cmにわたり内径が三六〇mmと狭くなっていて、その位置は二階屋上の周囲に設けられたコンクリート製の立ち上がりに接する位置にあり、その高さはこの立ち上がりより一〇cmほど高い位置にあった。そして、開口部は、コンクリート製のサイロ状の構築物で覆われた形になっており、このサイロに設けられた高さ五五cm、巾五〇cmの長方形の吹き抜けの窓の両側から排煙が排出される形状になっていた(具体的な形状については別紙一四のとおり。)。

煙突は、ボイラー室に設置された給湯ボイラーからの排煙を排出するためのもので、このボイラーから出た直径四〇cmの排気ダクトは、ボイラー室内を通って、床面から高さ二m二五cmの位置で、煙突が内部に納められた柱に取り付けられて煙突に接続しており、排煙は、煙突底部から二m二五cm以上の位置で煙突に流入して上部に抜け、開口部から排出される構造になっていた。右のような構造のため、ボイラー燃焼中の煙突内の温度は、右接続箇所が最も高温になり、その温度は二七〇度以上に昇り(証拠上は最高は二七七度。ただし、測定は平成一〇年五月一九日午後〇時七分)、開ロ部付近でも一二〇ないし一三〇度程度になる(証拠上は最高一三〇度。ただし、測定は平成七年五月一六日午前七時一五分。)ものであった。これに対し、接続箇所より下の部分には排煙は流入せず、ボイラー燃焼中でも、その温度は、底部近く(高さ五八cm)においては三〇度に達せず(証拠上は最高24.8度。ただし、測定は平成七年四月二六日午前七時一〇分。)、高さ一五二cmの位置においても三〇度を大きく上回ることはなかった(証拠上は最高で35.0度。ただし、測定は平成七年九月二六日午前八時二分で、当時のボイラー室の室温は33.1度)。

ボイラーは、運転中、ヒーターの温度が六七度まで下がるとまもなく自動的に点火され、ヒーターの温度が七二度に達すると燃焼が停止するように設定されており、平成七年三月一一日朝にボイラーの稼働状況を調査したところでは、燃焼(五ないし六分)と燃焼休止(一一ないし一八分)が交互に繰り返され、ボイラーからの抽気も、ボイラーの燃焼サイクルに合わせて(ただし抽気の開始・停止は燃焼の開始・停止より数分遅れる。)行われていた。このように、ボイラーが常時燃焼しているものではないことから、煙突からの排煙も断続的に排出されるようになっており、煙突内の温度も、ボイラー燃焼中は前記のとおりであるのに対し、燃焼停止中は、開口部付近で次の燃焼開始直前には四〇度前後にまで下がる(証拠上は最低で三五度。ただし、測定は平成七年五月一六日午前六時二五分。)もので、人が開口部から手を入れて煙突内側を触っても、ややなま暖かいと感じる程度の状態になるものであった。

煙突からの排ガスの組成を測定分析したところによれば、排ガス中の酸素濃度は8.6ないし11.6%(平均10.1%)であった。

ちなみに、空気中の含有酸素量は二一%であるが、これが一四ないし九%では、判断力の低下、酩酊状態、チアノーゼ、意識もうろう等の症状となり、これが一〇ないし六%では昏倒、意識不明、チアノーゼ、全身の筋けいれんの症状となり、これが六%以下では、一瞬のうちに失神昏倒し、呼吸停止を経て数分後には心臓停止となるとされている。

佐倉警察署が捜査したところ、開口部付近にはサンダル様の足跡が印象されていたことが判明したほか、煙突の先の部分に新しい傷があることも判明した。

10  本件梯子の状況

本件梯子は、園舎二階の壁面に取り付けられた九段の手摺で、その間隔は二八ないし三七cmであり、最下段は食堂屋上の床面から九四cmの高さに取り付けられていた。前述のとおり、本件梯子には、失踪当日当時、園生が二階屋上へ登るのを防止する目的で、別紙一三のとおりベニヤ板の覆いが取り付けられており、その右脇(本件梯子の手摺の右端から三〇ないし四〇cmの位置)には高さ179.5cmのスチール製ロッカーが置かれていた。

失踪当日の朝に仲田指導員が発見した右ロッカーの上面の埃が擦られた痕跡は、埃がすっと削り取られたような直径一〇ないし一五cmの楕円状のものが一箇所ついており、ロッカーの上でばたばた上がりなおして向きを変えた感じの足跡とはいえなかった。

11  遺体発見後の警察の捜査

佐倉警察署は、春子の遺体発見後、被告についての業務上過失致死被疑事件等として、被告職員等に対する事情聴取等の捜査を継続したが、平成四年四月二六日までの時点では、それまでの捜査状況を踏まえ、①ボイラー室には鍵がかかっていて普段は人が入れないこと、②煙突の先の部分に新しい傷があり、春子がつけた可能性があること、等の理由から、春子が開口部から何らかの形で落ちたものとの見方をしていた。また、本件の審理過程において千葉地方裁判所佐倉支部裁判官が原告らの申立てに基づき行った、佐倉警察署に対する春子が死体で発見された件に関する一切の捜査記録についての平成七年八月三一日付送付嘱託に対する回答として、佐倉警察署長作成の同年一〇月一六日付「文書の送付について(回答)」(乙二七)においては、捜査結果として、自己過失による死亡と認められる旨記載されていた。

二  事実認定上の問題点

1  警察が脚立等の情報を入手していた時期(前記一6)について

証人豊田威夫の供述中には、前記認定に反し、食堂屋上に脚立が立てられていたとの情報が警察に入ったのは春子の遺体発見後であるとする部分がある。

しかし、仲田指導員が岩本指導員等に脚立のことを話したのは失踪当日の職員朝会ころのことであること(前記一5(五))、仲田指導員は失踪当日ころには警察から事情聴取を受けていること(証人仲田洋)、仲田指導員が春子の捜索のための事情聴取において殊更脚立のことへの言及を避けるべき事情は証拠上認められないこと、証人豊田威夫の右証言部分は断定を避けた曖昧な表現になっていること、以上の事情を総合すると、本件梯子の前に脚立があったことやロッカー上面の足跡のことを失踪当日ころの事情聴取の際に警察官に話しているという証人仲田洋の証言は信用するに足りる。証人豊田威夫の前記供述は、右認定を妨げるものではない。

2  発見時の春子の遺体の姿勢について

(一) 証人豊田威夫の供述中には、取り出された春子の遺体は、右膝を曲げ、左足を前方に振り上げた姿勢をとっていたとする部分がある。

しかし、右証言は、煤取り口から取り出された後の遺体の姿勢について説明をするに止まるものであって、煤取り口の内部でも遺体がそのような姿勢であったことまで供述する趣旨のものではない(なお、同証人は、同時に、取り出した部分で初めに煤取り口から出てきた箇所について、足の方であった旨供述するものの、これが足のどの部位かという点に尋問が及ぶと、それは分からない旨供述するほか、同証人が煤取り口内部を覗いたときの遺体の状態については、膝のようなものが見えたと述べつつも、右足を折った状態というのはよくはわからなかった旨供述している。)。

(二) そして、証人木内政寛の証言によれば、解剖時の春子の遺体は、関節が燃えてしまってばらばらになっており、手足が正常の状態でついていたものではなく、その姿勢そのものが不明であったというのであって、春子の遺体が司法解剖に付される前に、姿勢が不明になるような各関節の損壊を受けるという事態が想定しにくい以上、春子の遺体は、発見当初から、煙突内での姿勢を論じることができないまでに、焼燬により関節が分離していたものと推認される。そして、この推論は、一辺が約四〇cmの正方形である煤取り口から身長一五四cmの春子の遺体(焼死体であっても、骨格が極端に収縮するものとは考えにくい。)を変形させることなく取り出すことが極めて難しいと考えられることからも首肯できるところというべきである。

また、煙突内での遺体の姿勢については、証人豊田威夫の供述のほか、遺体は立った状態であったとする甲四、遺体はうずくまった状態であったとする甲五、概ね正座した状態であったとする乙二七といった相矛盾する証拠があり、特に、乙二七は佐倉警察署長作成文書であり、甲四、五は新聞記事ではあるがその取材源は警察関係者である可能性が強いところ、このように、警察内部においても春子の姿勢について認識が区々となっていたと窺われることも、春子の遺体の取り出し作業に従事した警察官が煙突内部での遺体の姿勢を必ずしも確認したものではないことを推認させる。

なお、右のような考えた場合、春子の遺体を、壊さないように時間をかけて、そっくりそのまま取り出した旨の証人豊田威夫の供述は、遺体の取り出しに当たった警察官らがそのように配慮をして慎重に作業を行ったことを述べる止まり、それ以上に、結果的に春子の遺体を煙突内部にあったときと同じ姿勢のまま取り出すことができたことまでをいう趣旨ではないというべきである。

(三) 右のとおりであるから、煙突内部での春子の遺体の姿勢は、これを認めるに足りる証拠はなく、不明であるというほかない。

三  春子の死亡に至る経緯

1 春子の失踪後の状況については、これを直接に認定すべき証拠はなく、春子の死因及び死亡時刻も、司法解剖によっても不詳であり、春子の死亡に至る経緯を直接に明らかにする資料はない。そこで、春子が失踪後死亡に至るまでの経緯については、仮説を立てた上で、それぞれについて、前記認定事実及び本件の全証拠に照らし合わせて検討を加え、当該仮説を支持すべき証拠や間接事実、これを否定すべき証拠や間接事実をそれぞれ吟味検討し、さらに他の仮説と比較した場合の優劣をも考慮した上、当該仮説を本件における事実経過の中に当てはめた場合に、周囲の関係事実との不整合が最も少なく、しかもその不整合も可能性の問題としては一応の合理的説明が可能であるような仮説があり、かつ、その他仮説が真実であることを排除するに足りるような場合に、これを採用し、裁判所の判断の基礎となる事実として認定すべきということができる。

そして、原告らは、この点について、①ボイラー室の煤取り口から春子自らが煙突内に入り込んで死亡した可能性(以下「仮説①」という。)、②開口部から春子自らが煙突内に入り込んで死亡した可能性(以下「仮説②」という。)、③何者が春子に暴行を働き、その後の焼却炉等煙突以外の場所で焼燬されて殺害され、遺体が煙突内に入れられた可能性(以下「仮説③」という。)、の三点を主張するので、以下検討する。

2  仮説①について

(一) 前記一7及び9で認定した事実を総合すると、①ボイラー室に入るためのドアのうち、外部に通じる二つのドアは普段から施錠されていて、園生も職員も出入りをすることはなかったこと、②ボイラー室と内廊下との間のドアは、普段から施錠されていた、その鍵であるマスターキーは職員全員が持っていたものの、ボイラー室に職員が立ち入るのは、一日に一度宿直の職員が見回りのために入るときのみであること、③煤取り口は壁面最下部に設けられていて、一辺が四〇cmの正方形の形状をしていること、④煤取り口の扉にはボイラー室側から施錠する打鍵錠が取り付けられており、煙突側からは施錠できない構造になっていたこと、⑤平成四年三月二六日に岩本指導員らが煤取り口を開けようとする際には、右錠はロックされていたこと、⑥煙突は、その構造上、ボイラーからの排気ダクトとの接続箇所より下の部分には排煙が流入しないようになっており、その部分の温度は底部から一五二cmの位置においてもせいぜい三五度になる程度であったこと、⑦失踪当日ころの春子の身長は一五四cm、体重は五〇kg程度であったこと、⑧煙突は円筒形をしており、底部から二m二五cm付近にある排気ダクトとの接続箇所までには手掛かりあるいは足場となるような箇所は構造上認められないこと、以上の各事実を認めることができる。

(二) 右の事実を総合すると、仮説①は、春子においてボイラー室の鍵を容易に使用することができ、あるいは当時ボイラー室の施錠がされていたかった場合以外に成立しないところ(右①、②)、本件の全証拠によってもボイラー室の鍵の管理及び施錠につき右のような状況にあったとの事実は窺われないし、仮に春子がボイラー室に立ち入ることができたとしても、煤取り口の位置と形状に照らすと、春子の体格では入り込むことは困難なものである(右①、⑦)。そして、仮に春子が煤取り口から煙突の中に入り込めたとしても、煤取り口の扉を煙突内側から施錠することは不可能である以上、錠を外部から何者かがロックしない限り、遺体の発見時に扉の錠がロックされていたことは合理的説明がつかない(右④、⑤)が、第三者がこの錠を故意に又は誤ってロックしたとの事実を認めるべき証拠はない。さらに、煙突底部に生前春子が入り込んだとしても、煙突内部は、その構造上、最下部から一五〇cmあたりまでの部分においては温度がさほど上がらないものであるし(右⑥)、春子が排気ダクトとの接続部分まで煙突内を自力で登ったという事態も想定し難い(右⑦、⑧)。したがって、仮説①の下では、春子が煙突内部で、発見当時のように全身が焼燬された状態で発見されることはあり得ないことというほかない。

(三) 右のとおりであるから、仮説①を事実として認めることはできない。

3  仮説②について

(一) 仮説②を真実とすべき事情としては、次のものを挙げることができる。

(1) 開口部付近は、ボイラーからの抽気が停止している間は、人が触れることができる程度にまで温度が下がるものであり、その大きさも、春子程度の体格の成人女性が入り込むことが不可能ではないものであること(前記一9)。

(2) 失踪当日の午前八時二五分ころ、食堂屋上の本件梯子の直前に組み立てた脚立が放置されていたこと(前記一5)。

この事実からは、脚立を置いて二階屋上に登った者が、登ったきりで下りてこなかったか、あるいは少なくとも再びここを下りて、片づけることをしなかったことが推測される上、脚立が春子殺害のために使用された可能性が低いことを推認させるものである。

(3) 春子の遺体の焼燬状況は不規則であったが、首から上の部分の焼け方は比較的軽度で、頭部には一部頭髪も残存しており、春子の身体を焼いた熱は、足の方向からのものであったことが窺われること(証人木内政寛)。

この事実は、仮説②に基づいて、春子(の遺体)が、煙突内で下方から来る高温の排煙にさらされたと考えた場合には整合するものであるとともに、春子の遺体が焼かれた場所が焼却炉等の均等に温度が行き渡るような焼却用の設備ではなかったことを窺わせる。

(4) 春子の所持品に脂様のものが付着していたこと(前記一7)。

右物質は春子の遺体から出た油脂分である蓋然性が高いところ、これが春子の所持品に付着していた事実は、遺体が煙突内(高温になる排気ダクトとの接続箇所よりも上部)で熱気によって焼かれ、遺体から滲出した油脂分が、先に煙突底部に落下していた所持品の上に落下して付着したものと考えれば、合理的説明が可能である。

(5) 煙突底部から発見された布製サンダルは、煤が付着して汚れてはいるものの、焼燬はほとんどされていないこと(甲一三)。

右サンダルは、春子の遺体が焼燬する程度までの高温にさらされなくとも容易に焼燬されるはずのものであるところ、このサンダルは、一部に汚れは見られるものの、焼燬された痕跡は証拠(甲八、一三)上は認められない。この事実は、春子(の遺体)が高温で焼かれる以前に、足を下方に向けて本件煙突に入り込んだ(入れられた)ことを窺わせるものといえる。

(6) 被告職員や千手園園生ら春子の関係者に、春子を殺害し、あるいは死亡するほど強い暴行を加えるような動機を有する者が存在することを窺わせる事情は認められないし、千手園外部の第三者に春子の殺害等に及ぶ動機を有する者がいることを窺わせる事情も認められないこと。

(7) 春子と同室であったBが、有村指導員からの春子が部屋を出ていった状況についての質問に対し、春子が一人で居室から出ていったことを示唆する内容のことを述べていること(前記一5(四))。

(8) 佐倉警察署の捜査の結果、開口部付近にはサンダル様の足跡が印象されていたほか、煙突の先の部分には新しい傷があることが発見されたこと(前記一9)。

(9) 春子の死亡に関し捜査を遂げた佐倉警察署が、平成七年一〇月一六日当時、捜査結果として認められる原因について、自己過失による死亡と認められる旨の結論を出していたこと(前記一11)。

(10) 春子は、失踪当日ころまでに、週末の金曜日又は土曜日が帰宅する日であることを習慣として認識するに至っており、失踪当日の前の週末には、居宅訓練が日曜日のみの日帰りであったところ、前日の土曜日(平成四年三月七日)には精神的に不安定になり、夕方には「土曜日お家帰る。」と言って衣類を抱え、夜には紙袋を持って無断外出をするに至っていること(前記一3)。

(11) 春子の無断外出の動機は、自宅に帰ることにあるものと疑われる節があったところ、失踪当日は土曜日であったが、平成三年七月以降ほぼ毎週末に実施されていた居宅訓練は、その週末には事情により取りやめになっており、春子はそのことを前日までに知って精神的に不安定になっていたこと(前記一3、4)。

(12) 春子は、無断外出をしようとし、あるいは居宅訓練をする場合、ビーズ作品や衣類等の荷物を袋に入れて携帯することがあった(別紙一二)。

(二) 他方で、仮説②を疑問視ないし否定すべき事情としては、次のものがある。

(1) 遺体とともに発見された所持品が、およそ一〇kgの重さであること(前記一7)。

この点について原告らが指摘するとおり、これらの所持品を携帯しながら、本件梯子前の脚立からロッカーに移り、さらにベニア板で覆いがされた本件梯子に取りついてこれを登ることは、所持品を袋等に入れてまとめて持っていたとしても、困難さがあったものと考えられる。ただし、これが不可能であるとまでいうことはできない上、複数回に分ければ十分可能性はあったと考えられる。

(2) 春子の遺体が焼燬されていること。

仮説②を仮定した場合でも、春子の遺体が焼燬されている以上、煙突最下部に直ちに落下したものではなく、一定期間は煙突上部(ボイラーの排気ダクトとの接続箇所より上の、高温になる部分)に止まっていたはずのものである。他方、仲田指導員が失踪当日の午前八時二五分に開口部に顔を近づけたときには、春子(遺体も含む。以下、この項において同じ。)はその付近にはなかったものであるが、この時点までに、春子が発見当時のように第四度火傷や残存軟部組織等の乾燥収縮を起こしていたものとは考えにくいから、春子は、そのころには、煙突の中間付近で止まっていたものといわざるをえない。

ところが、煙突は、内部に円筒形のケイ酸カルシウム成形パイプが用いられたもので、排気ダクトとの接続箇所を除けば特段手掛かりや足場となるようなものがある構造にはなっていない(前記一9)から、春子が開口部付近から午前八時二五分ころまでの間に落下した際、この部分に引っかかって静止し、排気ダクトからの高温の排煙によって遺体が乾燥収縮して再び煙突最下部へと落下するまでの間、ここに止まっていたものと考えざるを得ないが、このような事態は、可能性としては否定されないものの、これが真に生じた蓋然性は決して高いとはいい難い。

(3) 春子の遺体の大腿部前面に痕跡があった皮下出血が、かなり強いものであったこと(証人木内政寛)。

右事実からは、当該部位に一定以上の外力が加えられた事実を認めることができるが、仮説②を仮定した場合、いかにして大腿部の前面にそのような外力が加わって皮下出血が生じたのかとの点については、春子が開口部から落下した際に生じたとの一応の説明をすることは可能であるが、このような説明はにわかに首肯できるものとはいい難い。

(三) 右で検討したところによれば、仮説②は、本件で認められる諸事実に照らした場合、その多くにおいて付合し、あるいは合理的に説明を加えるべきものであり、その意味では、仮説①よりも有力なものということができる。

しかし、他方では、仮説②を真とした場合、これと不整合を生じ、合理的説明をすることが困難な有力な事情も(二)のとおりなお残る。そして、仮説②を認定すべき直接的な証拠がない中で、間接事実のみからこれを推認しようとする場合、(二)で挙げた各事情は、その推認を妨げるに足りる有力な事情であるといわざるを得ない。

結局、仮説②についても、これを事実として認めるに足りる証拠はない。

4  仮説③について

(一) 原告らは、仮説③を支持する間接事実として、①春子の遺体の状況から遺体は煙突内に無理矢理押し込められたことが窺われること、②春子の遺体には強い外力を受けた痕跡があったこと、③春子の遺体は四〇〇度以上の温度で焼燬されており、その場所は煙突の外であると考えられること、④春子の遺体とともに発見された大量の所持品を春子が持って本件梯子を登ることは不可能であること、③春子の知能程度に照らし春子が自ら煙突内に入り込むことは考えにくいことの五点を指摘するので、以下それぞれについて検討する。

(二) ①(遺体の姿勢)について

この点については、前記二3で説示したとおり、煙突内部における春子の遺体の姿勢は証拠上は不明である。

また、仮説③は、春子が煙突外での焼燬後に煙突内に入れられたとするものであり、この仮説の下では、春子の遺体は、煙突に入れられる以前から関節が燃えて骨がばらばらになった状態であったはずであるから、煙突内部での遺体の姿勢の不自然性を論ずることは、それ自体適当ではない。

よって、遺体に姿勢についての原告らの主張は採用できない。

(三) ②(遺体の皮下出血)について

この点については、証人木内政寛の証言中には、これに沿う部分(右大腿部の前から外側の、付け根から下方にかけての部位に、外力に起因すると思われるかなり強い比下出血が見られた旨の証言部分)がある。

ただ、このほかに、同証人の証言によれば、春子に遺体には当該部分を含め一切骨折はなかった事実、当該皮下出血は、打撲のほか、強く圧迫するように擦っても生じうる事実、右皮下出血の部位の皮膚には焼燬以前(死亡との先後は不明)に裂創が生じていた可能性がある事実が認められ、以上の事実を併せて考えると、②については、春子の身体に、遺体の焼燬前(生前又は死亡直後と推測される。)にある程度の外力が加えられた事実は認められるものの、この事実をもって、それ以上に、これが他者による加害行為によって生じたものであるとまでは認めることができない。

(四) ③(遺体の焼燬温度)について

この点についての原告らの主張のうち、前提となるべき、春子の遺体が四〇〇度以上の温度で焼燬されたとの点については、これを認めるに足りる証拠はない。すなわち、原告らの主張は、木材の発火点は四〇〇度であるから、より水分を多く含有する人体の発火点はこれよりも高温のはずであり、春子の遺体も四〇〇度以上の高温で焼かれたはずであるというものであるところ、人体の発火点が四〇〇度を上回る点及び春子の遺体のような状況になるためには人体の発火点以上の温度が必要であるとする点については、これを認めるべき証拠はなく、原告らの主張するところも推論にすぎないのであって、かえって、証人木内政寛は、春子の遺体の焼かれた温度については、かなりの高温としながらもその温度ははっきりは分からない旨証言しているし、遺体の頭髪が燃えずに残っていることに照しても、遺体が四〇〇度もの高温にさらされたとは考えにくい。

このほか、同証人は、春子の遺体の焼かれた温度が一六四度でちょっと低いような感じがする旨証言しているところ、煙突内部の温度は、最も高い箇所では二七〇度以上になる(前記一9)ものであるから、春子の遺体の焼燬状況から、焼燬の場所が煙突の外側であったと認めることはできない。

(五) ④(大量の所持品)について

この点については、なるほど、春子の遺体とともに発見された所持品は、点数も多く、重さも一〇kg程度のものであったことが認められる。

ところで、春子は、生前、自宅に持帰る所持品をビニールの大きな袋に入れたり、無断外出の際に紙袋を所持していたりしたことがあった上(別紙一二参照)、春子が失踪した当時、クレヨン等の入ったビニール袋もなくなっていたことや春子の衣類等も一緒に持ち出されていることからすると、右遺体とともに発見された所持品は、右ビニール袋か他の袋に入れられて持ち出されたものと推認される。そして、春子が袋に入った右所持品を一度に所持して本件梯子を登ることは、その重さが一〇kg程度であり、脚立やロッカーがそばにあったことをも併せ考えれば、容易とはいえないものの、不可能とまではいうことはできないし、少なくとも、袋に入れて複数回に分ければ、十分可能であったと考えられる。

したがって、所持品の点数と重さの事実のみから、所持品を携帯して本件梯子を登ったのが春子以外の者であると直ちに認めることはできない。

なお、後記のとおり、被告職員が春子の死亡に関与したとの立証はない以上、ボイラー室の施錠管理状況に照らし、春子の身体及び所持品は煤取り口ではなく開口部から煙突内に入った(入れられた)ものというべきところ、春子の死亡に関与した者にとって、春子の遺体及び所持品を携帯して本件梯子を登るにあたっては、春子がその所持品を携帯して本件梯子を登るのと同等以上の困難が伴うというべきである。

(六) ⑤(春子の知能程度)について

客観的な春子の知能程度については、昭和五三年に知能障害等級についてBと判定がされ、昭和六二年ころにIQ三〇、MA四歳一〇月と判定された(前記一3)以外はこれを直接に認めるべき証拠はなく、失踪当日ころの知能程度については、日常の春子の行動記録(乙一七ないし一九、二〇の1ないし21、二一の1ないし18、二二の1・2)からわずかに窺い知ることができるほか、小学校低学年程度の計算の練習をしていたこと、ビーズ作品を作成することができたことが証拠上認められるにすぎない(甲一二、一三、一九、二三、二四)。しかし、右のような事実が、春子が自ら本件梯子を登ったり、煙突内に入り込んだ可能性を排除するとはいえないから、春子の知能程度は仮説③の根拠とはならない。

(七) このほか、仮説③についてさらに検討する

(1) 精神薄弱者更生施設である千手園で日常生活を送っていた春子の生活状況に照らすと、春子を失踪当日の早朝に他所へ連行して殺害(あるいは傷害致死。以下「殺害等」という。)するような、怨恨や経済的利益等の動機を有する者がいるとは考えにくいし、そのような者の存在を窺わせるべき証拠もない。

また、春子と日常生活を共にしていた千手園の園生や被告職員についても、この中に、春子の殺害等に及ぶ動機を有する者が存在するとの事実を窺わせる証拠はない。

(2) 仮に第三者が春子を煙突外で殺害等した場合、遺体を煙突内部に入れるという行為は、到底そのような行為者がとるべき合理的なものとはいい難い。

すなわち、千手園の関係者以外の何者かが煙突外で春子を殺害等した場合、その後園舎内に春子の焼死体や多数の所持品を携帯して立ち入り、これらを携帯しつつ食堂屋上から昇降困難な本件梯子を登って二階屋根へ上がり、開口部からこれらを投棄する(前記2で検討したとおりのボイラー室のドアの施錠管理の状況に照らし、外部の者がボイラー室に立ち入って煤取り口から遺体等を煙突内部に入れたとは考えられない。)という行動は、それ自体が意味のない行為であるばかりか、目撃される可能性を考えると、殺人犯のものとしての合理性を欠いているというべきである。のみならず、前記一4以下のとおり、千手園では、春子の行方不明の発覚以降、職員や警察を初めとする外部関係各機関等による園内外の捜索活動が連日行われていたことを考慮すれば、そのような人物が敢えて園舎内に焼死体等を持ち込んで開口部から投棄するという行動はより一層合理的ではないというべきである。

また、被告職員が殺害等に関与した場合、遺体を煙突内に入れるという行為は、春子の殺害等の関与者に内部者が含まれることを疑う手掛かりとなるべき痕跡を残すことにほかならない(現に、原告らは、被告職員に殺害等の関与者がいる可能性を主張している。)がそのように殊更手間をかけて自らと殺害等を結びつける手掛かりを残す行為は、殺害等の関与者たる被告職員の行為としては、殊に不合理というべきである。

(3) 所持品を持ち去り、一部焼却して遺体とともに放置するという行動も、合理性を欠くものである。すなわち、春子を殺害したのが何者であるかに関わらず、大量の所持品を春子の居室から持ち去り、あるいは春子が所持していたこれら所持品を奪って、一部を焼燬した上で遺体とともにこれを煙突内に投棄するような行為には、いかなる合理性も見出し難い。

(4) 煙突内から発見された春子の所持品は、脂様のものが付着し、表面がぬるぬるしていた(前記一7)。

この脂様のものについては、春子の死亡についての捜査内容を要約した佐倉警察署長作成の千葉地方裁判所佐倉支部裁判官宛の回答書(乙二七)には、その成分についての分析結果の記載はなく、かえって、捜査結果として自己過失による死亡と記載されていることのほか、遺体の軟部組織や臓器の一部は熱凝固を起こしていたこと(証人木内政寛はこれを「ステーキみたいな状況」と表現している。)に照らすと、これが春子の身体から出た油脂分である蓋然性は高いというべきである。そして、春子の身体の脂分が所持品に付着していた以上、遺体が焼燬された機会にその場所(遺体の下方)に置かれていたものと推測される。

しかし、他方で、春子の遺体やこれに付着していた衣類の焼燬状態とそれ以外の春子の所持品の焼燬状態が異なっていること(前記一7)からすると、遺体の所持品は別の機会に焼燬されたのではないかとも疑われる。

このような一見相矛盾する状況について、春子の遺体は焼却炉等で焼かれたとするにとどまる原告らの主張は、合理的説明を加えるものではない。

(5) 前記一5のとおり、失踪当日の午前八時二五分ころには、食堂屋上の本件梯子の前には脚立が放置されていたものであるところ、仮に仮説③が真である場合、右脚立は、当該何者かが遺体等を煙突内に投棄すべく二階屋上に上がるために使用したものか、別の第三者が何らかの理由で放置したものか、ということになる。

しかし、前者については、春子が行方不明になった午前六時五分ころから脚立が発見された午前八時二五分ころまでの間に、何者かが、春子の殺害や遺体等の焼却と投棄という一連の行為を捜索のために多数の職員が巡回している園内で敢行することや、その後脚立を放置するという行為は、それ自体そのような者の合理的行動とはいえないし、そもそもそのような行為が可能であったとも考えにくい。また、後者については、脚立が当該場所に放置された理由を何ら合理的に説明するものとはいえない。

いずれにせよ、仮説③は、脚立が放置されていた事実を直ちに合理的に説明するものとはいえない。

(八) 以上で検討したところを総合すると、仮説③については、これを支持し得る事実として、春子の遺体の右大腿部に残された皮下出血の痕跡の存在を挙げることができるものの、それ以外に原告らが指摘する諸事実は、必ずしも仮説③の基礎となるものとはいえず、また、本件の事実関係全体の中にこの仮説を当てはめた場合には、(七)で検討したとおり合理的説明の困難な諸点が残ることになる。したがって、仮説③については、これを真実することはできない、すなわち、これを事実として認めるに足りる証拠はないというべきである。

(九) なお、原告らは、被告職員が春子の殺害等に関与したと主張し、これに沿う事情としていくつかの事実を挙げているところ、このうち、千手園の指導員が園生に対して度々暴力を加えていたとする点について検討する(その余の点は、仮説③を前提とするものであるから、(八)までに判示したところにより失当である。)。

原告らは、右事実に沿う証拠として甲二一を挙げている。しかし、甲二一は成立に争いがあるところ、この点に関しては、その作成が真正である旨の原告田中政子の供述があるものの、他方で、その中に記載されている作成者である元千手園指導員山下千代美の勤務期間が、乙三一によって認められるそれと齟齬を来していることからすると、右供述をもってしても、なおその作成者の真正を認めるには足りないものというべきである。また、仮に甲二一の作成が真正で、かつその内容も真実であるとしても、ここから認められる事実が、被告職員による春子の殺害を推認させるものとは到底いい難い。

したがって、原告らの右主張は、いずれにせよ採用できない。

5 以上のとおり、春子が死亡に至る経緯について原告らが挙げる仮説は、いずれもこれを認めるに足りる立証がない。そして、この他に、春子の死亡を合理的に説明するに足りる仮説は見当たらない。

6 よって、原告らの請求は、注意義務違反を論ずるべき前提となる、春子について被告が払うべき注意義務の対象について立証がないこととなるから、その余の点について判断するまでもなく、理由がない。

四  被告の注意義務違反について

三で検討したとおり、春子が死亡するに至る経緯の立証はないものであるが、このうち、仮説②については、その蓋然性は他の仮説に比して高く、被告においても、そのような事態が生じるべき可能性があることは争っていないことから、念のため、仮説②が真実であるとした場合の、被告の注意義務違反の有無について検討を加えることとする。

1  捜索義務違反について

(一) 原告らは、失踪当日の朝、千手園の敷地の門に設置されていたセンサーが作動したのは確認されていないこと、食堂屋上の本件梯子の傍らにロッカーが置いてあったこと、脚立が本件梯子の前に立てられて放置されていたこと、ロッカー上面に積った埃も一部がこすれた状態となっていたこと、これらの状況が失踪当日朝の捜索開始当初から判明していたことを根拠として、被告職員において、春子が屋上へ上がって開口部から煙突に入り込んだ可能性を考えて煙突内を捜索すべき義務があったと主張する。

このうち、原告らが指摘する各事実については、前記一で認定したとおり、いずれもこれを認めることができる。

(二) このほか、前記認定事実及び証拠(乙三二)を総合すると、この点についてはさらに次の事実を認めることができる。

(1) 春子は、平成三年四月ころから無断外出をする傾向を見せるようになり、平成四年一月以降についてみても、二度の無断外出のほか、二度の未遂があり、指導員らの間では、情緒不安定な状態になると春子が無断外出をしようとすることがあることが申し合わせ事項となっていた(前記一3)。

(2) 無断外出をする園生の中には、千手園の正門に設置された園生の無断外出防止のためのセンサーが作動しないように外出する者が何人かおり、被告職員は、園生が行方不明になったときにセンサーのチャイム音が聞こえなかった場合でも、特に捜索の対象を千手園敷地内に絞ることはしていなかった(前記一5)。

(3) 本件梯子には、園生が登るのを防止するために別紙一三のとおりベニヤ板で覆いがされており、失踪当日まで二階屋上に上がった園生は一名もいなかった(乙三二)。

(4) 仲田指導員は、失踪当日の午前八時二五分ころ、食堂屋上の脚立やロッカー上の足跡の存在を確認したことから、捜索の一環として、本件梯子を登って二階屋上を捜索した(前記一5)。

(5) 開口部は、その形状や大きさに照らし、ここから春子程度の体格の者が入り込むには困難を伴うものと通常考えるべきものである(前記一9)。

(6) 佐倉警察署は、失踪当日ころには、食堂屋上に脚立が立てられていたことやロッカー上面に足跡様の痕跡があったことを指導員からの事情聴取によって把握していたが、それ以降の捜索では、ボイラー室を含む園内の各部屋や二階屋上、天井裏までもが捜索対象とされたものの、煙突内部は捜索対象とはしなかった(前記一6)。

(三) 前記(一)によれば、確かに、被告職員らは、失踪当日の午前八時三〇分過ぎころまでには、失踪当日の早朝に正門に設置されたセンサーの作動が確認されていない事実、食堂屋上の残された何者かが二階屋上に登ったことを疑うべき痕跡である、普段は横にして重しとして用いられていた脚立が本件梯子の前に立てられていた事実及び本件梯子の傍らのロッカーの上面に足跡様の痕跡が残されていた事実を把握していたものであり、このような状況の下では、被告職員において、二階屋上に春子が登った可能性を考慮し、ここを捜索すべき注意義務は免れないものというべきである。そして、仲田指導員は、右のような食堂屋上等の状況を認識して、直ちに二階屋上に上って捜索を実施している。((二)(4))。

これに対し、食堂屋上の不審な状況に対して二階屋上の捜索が実施され、それでも春子の発見に至らなかった場合、それ以上に、二階屋上から開口部を通じて春子が煙突内に入り込んだ可能性までをも考慮してここを捜索すべき注意義務を被告職員が負うものであるか否かについては、食堂屋上の不審な状況への疑いが二階屋上の捜索で一応払拭され((二)(4))、他方で春子の園外への無断外出を疑うべき相当な理由があり((二)(1)、(2))、園外に脱出した場合には発見の遅れが春子の生命身体に一般に重大な危険が及ぶ可能性が高いという状況の下で、春子が従前近寄ったこともなく((二)(3))、一般には人が入り込むことは考えられず、警察の捜索の対象からも除外されるような((二)(5)、(6))煙突内部について、春子が開口部からここに入り込んだことを予見することは不可能というほかないから、煙突内部を捜索すべき注意義務を被告職員に課すことはできないというべきである。

したがって、被告職員の捜索義務違反をいう原告らの主張は、理由がない。

2  管理義務違反について

(一) 原告らは、被告について、精神薄弱者更生施設の設置者として、園生の生命身体に危険が生ずることのないよう、必要な措置を講ずべき施設設置管理上の注意義務を負っており、煙突についても、園生がここに落下することがないよう、必要な処置を講ずる注意義務を負っていたと主張する。

(二) この点については、確かに、被告は、園生の生命身体の安全を保護すべき一般的な施設管理上の注意義務を負うものということはできる。

しかし、被告は、一般的に危険度の高い二階屋上に園生が上がるのを防止するために、本件梯子をベニヤ板で覆うという措置をとっていたものであり、この点において被告に注意義務違反があるとはいえない。そして、園生が周辺の脚立を持ち出して組み立ててこれに登り、ロッカーを伝って本件梯子上部に取りつき二階屋上に登った上、ここでさらに開口部に落下して(あるいは入り込んで)死亡するに至るという事態(仮説②)は、通常これを予見することは不可能であったといわざるを得ないから、被告において、そのような事態を念頭においてさらに何らかの施設管理上の措置をとるべき注意義務があったということはできない。

したがって、管理義務違反をいう原告らの主張は、理由がない。

3  監護指導義務違反

春子の千手園における日常生活において、同人が二階屋上に上がり、開口部から煙突内に入り込むという異常かつ危険な行動に及ぶことを予見させるような兆候が存在したことを認めるに足りる証拠はない。

したがって、被告職員において、春子の行動観察を怠り、危険行動に出る兆候を見過ごしたとの注意義務違反をいう原告らの主張は、前提を欠き失当である。

五  結論

以上のとおりであるから、その余の点について判断するまでもなく原告らの請求は理由がない。

よって、主文のとおり判断する。

(裁判長裁判官長野益三 裁判官桐ケ谷敬三 裁判官宮﨑謙)

別紙一〜一五<省略>

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